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曹洞宗 補陀山 観栖寺

歴史と概要 大永年間に開山されたと伝えられる観栖寺の歴史と概要をご案内。

概要

曹洞宗 補陀山 観栖寺
〒192-0153
東京都八王子市西寺方町223
TEL:042-651-3016
FAX:042-652-5361
住職・代表役員 森原雅裕

曹洞宗とは

曹洞宗とは

今から八百年ほど前の鎌倉時代。
道元禅師(どうげんぜんじ)が正伝の仏法を中国から日本に伝え 瑩山禅師(けいざんぜんじ)が全国に広められ曹洞宗の礎を築かれました。
このお二方を両祖と申し上げ、ご本尊 お釈迦さま(釈迦牟尼仏)とともに一仏両祖(いちぶつりょうそ)として仰ぎます。

観栖寺のご本尊

観栖寺のご本尊

観栖寺は歴史的には観音様のお寺であり、特に千手観音様をご本尊とします。
仏教の世界観では南方海の果てに有る補陀落山が観音浄土とされ 、観栖寺の山号である補陀山とはここから来ています。従って「補陀山」と名乗るお寺のご本尊は必ず観音さまであることがわかります。八王子三十三観音の第二番目札所となっており、午年には一般公開する「御開帳」が行われます。

地蔵菩薩

右の立像は「地蔵菩薩」。地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道の六道を巡り歩いて救ってくださる仏さま。特に観栖寺のお地蔵さまは歩く姿に彫られています。

毘沙門天

毘沙門天は四天王のうちの北方多聞天の別名。元はインドの財宝の神様。仏教に取り入れられて仏法を守る守護神となった。頭には兜、手には三叉戟、身には鎧をつけ、足元には天邪鬼あまのじゃくを踏みつけた姿をする。他の仏さま系統の像は蓮の花の開いた形、蓮台の上に乗っている。

釈迦三尊

一番奥の高い処に安置されるのは禅宗のご本尊である「釈迦三尊」。
真ん中はお釈迦さま、右のお獅子に乗っているのが「文殊菩薩」。文殊の知恵と言われるように智慧の仏さま。左が白象に乗った「普賢菩薩」。こちらは「慈悲」 の仏さま。三体そろって「釈迦三尊」。禅宗のご本尊なので地味な白木に近い仕上げ。観音・地蔵・毘沙門の三体はもう少し身近な仏さまなので彩色・色を付けていただいており、さらに光るところは金箔を細く切って貼り付ける「截金細工きりかねざいく」という手法で衣の模様や金具の光るところを表現されている。

仏像の作り方

仏像の作り方

奥の三体、手前の三体、合わせて六体は同じところで彫られたもの。仏像を彫る彫刻家を仏師といいますが、仏師の「渡邊勢山」師が率いる「勢山社」で彫られました。
工房を琵琶湖の西岸に構えお弟子さん方と今までに800体以上彫っているそうです。使われている木は木曽檜、内部の樹脂・ヤニが表に出にくいのでお顔が奇麗なままに保てるとか。
古い仏像には「一木造り」というのが有りますが、日本では鎌倉時代以降からは少なくなって、大きな木を一旦割ってから合わせる「寄せ木」の造り方が一般的になっています。一本だけでは複雑な形は造れませんし、割れが入ったり反りが来たりする。寄せ木にするとそれが防げますし、万一指が欠けたり、虫食いがあってもそこだけ修復すれば元通りになります。
お顔がとてもきれいですが、磨いたりこすったりはしません。木の繊維を崩すとそこから水分や埃が侵入して長い間には傷む原因になる。良く切れる刃物の切れ味だけで仕上げるのが仏師の腕なのです。

欄間彫刻

欄間彫刻

富山県井波の彫り師「澤義博」師の作。外の正面向拝柱の両脇、象と獏ばく、中央の龍も澤師の作品。本堂内部の欄間は十面あり全体で一連のストーリーを成す。
まず入口から見上げる三面は波打ち際で鶴と亀、千鳥が南の海から訪れた「観音様」を迎える形。陸地に上がって観栖寺周囲の四季を眺める。右の奥から春(梅とチャボの親子)、右手前が夏(池の水連とオシドリ)、左の手前が秋(鹿と紅葉)、左奥が冬(松に雪が積もり地面をウサギが走る。松に付き物の鷹をオナガドリに変える)。この四面は観栖寺のオリジナル。そして内陣正面で迎える「飛天・天人」の中で須弥壇上に安座して頂く流れとなる。 使われたのは「欅材」。

歴史

歴史1 歴史2

応仁二年(1468年)既に草庵があったと記録あり。
ある昔のこと、夜中に「葦ケ澤」に異光を伴って飛来するものがあり
里人が怪しんで翌朝行ってみると「千手千眼観像」等があったのでこれを祀った。
という言い伝えが残っていた。
過去帳の記載に、当地開闢は「大年法椿」禅師とある。
本寺・心源院の二世・天叟順孝が引退して当地の山に「伝通庵」を営む。
同じく過去帳の最後に、心源院の七世・天永琳達禅が心源院の二世・天叟順孝の遺跡を慕って堂舎を新たにして寺を「観栖」と名付ける、との記載あり。
慶安三年(1650年)徳川三代家光の出した「朱印文章」に
「先規にならい八石一斗観音堂領として寄附す 」 との記載あり。
それ以降の将軍から観栖寺に出された同じ
「朱印文章」11通には「先規にならい」の文は無くなっている。
この縁により観栖寺の寺紋は徳川葵の紋を使っています。また、開山堂には徳川家の位牌をお祀りしています。

夕焼け小焼けのお寺

童謡「夕焼け小焼け」の歌詞は作詞者「中村雨紅」の生家がある八王子市恩方地区の思い出をもとに大正8年ころ作られ、大正12年に発表されました。「夕焼け」「子ども」「カラス」など日本人の心の原風景に通じるこの童謡は広く親しまれています。
生前雨紅自身は鐘のモデルについてどことは残していませんが、夕焼けの鐘を取材する新聞社・テレビ局等は観栖寺を訪れることが多いです。
戦争中お寺の鐘はみな金属供出されましたが、戦後この地区では最初に観栖寺の鐘が昭和42年再建されました。その時に雨紅が書いた「ふるさとは みな懐かしく温かし今宵も聞かむ 夕焼けの鐘」の石碑が境内に建っています。